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湯野浜温泉 散策マップ

湯野浜温泉 散策マップ

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「学校坂喜兵衛の井戸」
昔の小学校、現在の温泉神社への通じる坂道の途中にあり、井戸に一番近い工藤喜兵衛氏の名にちなんで付けられた。湧き水を桝で囲んで溜めた施設に小屋がけをしたもので、昔は、小学校でもこの水を桶で担いで運び使っていたといわれる。

「温泉神社」
「温泉神社」
現在、日本海を見下ろす高台に祀られている温泉神社は、昭和51年まではレストハウスと愉海亭みやじまの間の道路際に鎮座していた。伝説によれば、初めて温泉が発見された時に、その守り神として祀られたものといわれている。現存の建物は、昭和52年に移築に着手し、拝殿が完成されたのは平成2年12月20日である。また、明治31年〜昭和33年までの約60年間、湯野浜小学校があった。


「金毘羅神社」(琴平神社)
天保13年(1842年)お伊勢参りのついでに四国のこんぴら参りに行った漁民によって勧請されたのもといわれ、遷宮した時の棟札が残っている。船の守護神として漁師達の間で古くから信仰されてきた。明治39年に日露戦争の戦勝記念として公園に整備された。

「桧丸のいかり」
「桧丸のいかり」
桧丸は、樺太の港を出港して、日本海の荒波を一路新潟港へと航海していたが、大正11年12月15日夕刻より暴風に遭遇し、飛島に避難の直前に機関が故障し航行不能となる。550トンの汽船は波に押し流され16日の朝、湯野浜の長岩の沖360mのところで座礁した。その後、船体は大破するが湯野浜・宮沢の村民の昼夜にわたる救助活動により総員32名の尊い命は救われた。


「満光稲荷神社」
今から170年前の天保年間の創建と伝わり、代々登り口の奥山家で祀っていた。昭和35年に現在に移転・新築された。

「乗慶院」
正保3年(1646年)に遷化した善宝寺11世翁俊学和尚が開いたお寺。明治9年に示寂した17世住職までは善宝寺の兼務で、俗に「善宝寺の隠居寺」といわれていた。現住職は、25世五十嵐卓三氏である。平成15年には、「三十三観音堂」が円成された。

「笹立不動」
ここは湯野浜保育園の発祥の地。大正5年に向上講を組織し、千葉の成田山新勝寺から本尊の不動明王を勧請したのが始まりである。大正13年に公園が整備され、戦時中は、空襲の際の避難場所となっていた。明治42年ここ笹立てから善宝寺南側までトンネルが掘られ、当時は重要な道路として使用されていたが、昭和15・16年のトンネル落盤で通行不能となり廃道になる。この道路は、俗称「笹立道」・「与十郎道」と言われている。

「惣三郎の井戸」
工藤惣三郎により湯野浜の諸生活用水・防火用水として水源地から350m引水して作られた。

「尾巻稲荷神社」
明治13年に菅原市三郎など四人がお伊勢参りに行った際、行く先々で市三郎の目の前に赤毛の狐が現れた。不思議なこともあるものだと油揚げを供えて供養した。その帰りに京都の伏見稲荷神社から勧請してきたのがこのお宮であるという。

「ガッキの水汲み場」
「ガッキの水汲み場」
この呼び名は、土俗の言葉で「段差がついている」ことを意味し、その場所の地形から生まれ付けられたもの。飲用水と洗い場の施設として100軒以上の家々で利用された。

「サイクリングロード」
昭和4年〜昭和50年の間、鶴岡駅から湯野浜温泉駅までの庄内交通湯野浜線の跡地として整備された。道沿いには、八重桜が植えられ住民の散策道としても利用されている。

「庄内砂丘・浜」
庄内砂丘は、長さ35キロメートルに及ぶ広大な砂丘です。かつて冬の季節風で砂塵は舞い上がり、人家をも押しつぶした風砂の害。緑の黒松林に守られた今では、想像すらできない時代があったのです。
この広大な美しい松林の1本たりとて自然に生えてきたものはありません。どの一本も人の手により植えられたものなのです。湯野浜海岸は、「日本の夕陽百選」の一つ。





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